東京高等裁判所 平成11年(う)721号 判決
まず,別件マージャンとばく事件の内偵捜査に従事していた警察官Aは,原審公判において,犯行当日の午後5時10分ころ,犯行現場から約44メートル離れた路上(一ツ木通り)に,視察対象のマージャン店「北」に向けて三菱ディアマンテ(以下「本件ディアマンテ」という。)が停車しているのに気付き,前日も同車が同様に停車していたことから,マージャンとばくの関係者が同車に乗って警察官の張り込み等を警戒する目的で見張りをしている可能性があると考えたこと,午後6時47,8分ころ,同マージャン店から3人の男が出てきたことを契機に,車内の人間を確認しようと考えて,視察の拠点から路上に赴き,通行人を装って同車にゆっくりと近寄って助手席側の歩道を通過するなどし,乗っている人物を至近距離から時間をかけて観察したこと,車内には運転席と助手席にそれぞれ男が見え,助手席の男は,前記マージャン店の出入口の方を注視していたこと,その男らに怪しまれないように,別方向から再度同車に接近することにし,いったんその場を離れ,マージャン店の反対方向に向かって付近の角を曲がると,銃声4発が聞こえたため,直ちに一ツ木通りに引き返したところ,本件ディアマンテはすでに姿を消していたこと,その助手席に乗っていた男は被告人に間違いないことなどを証言している。
同証言が原審弁護人の反対尋問に対して動揺していないことなど原判決が指摘する点に加え,Aは,とばく事件の内偵捜査中に本件ディアマンテを不審車両として把握し,同捜査活動の一環として,車内の人間を特定する目的の下に意識的に観察した状況が明らかであって,さらに,運転席及び助手席の両方の窓ガラスがいずれも全開状態であり,夕刻とはいえ,繁華街であるため本件ディアマンテの周囲が照明により明るかったことなどのその余の目撃条件をも併せ考えると,同警察官は,助手席にいた男の容貌等の特徴を的確に掴むことができ,その具体的な記憶を保持していたものと認められる。このことは,同警察官が,平成9年6月2日に実施された写真面割りに際し,二百数十枚の写真の中から被告人の写真を抽出したほか,同年8月21日に東京地方裁判所において,法廷傍聴に訪れた被告人の姿等を現認して,助手席の男との同一性をあらためて確認していることからも十分裏付けられている。
次いで,前記のTBS会館北沿いの道路を一ツ木通りに向かって知人と歩いていたBは,原審公判において,原判決添付の見取図④の位置付近で,3回くらい,本件の銃声と思われる自動車のバックファイアのような音を聞き,さらに,間もなく,同見取図⑤付近で,男が,一ツ木通りの方から息せき切った様子で全力疾走で駆け上がってきて,TBS会館の裏手方向に曲がり,地下鉄千代田線赤坂駅の出入り口に向かうのを目撃したこと,男は,同駅の出入り口「3a」付近で,一旦止まって振り返ってから,階段を降りていったこと,その男は被告人に間違いないことなどを証言している。
この証言についても,被目撃者が,人通りの少ない夕刻のTBS会館北沿いの上り坂道路を全力疾走のように駆け上がるという特異な挙動を示していたことから,関心をもってその人物を観察したことが認められる上,最も接近した際には約1メートルの距離しかなく,対面する形でほぼ正面から5,6秒間見たなどとしているのであって,同人物の容貌等の特徴を十分掴める目撃条件であったと考えられる。そして,同証人の方に振り返った男の顔を再度見ることにより,その印象がさらに刻み込まれた事実をうかがうことができる。同証人は,写真面割りに際して,4,5冊位に上る多数の写真の中から最終的に被告人の写真のみ3,4枚を抽出し,また,目撃から約4か月後の8月21日に,東京地方裁判所の証人控え室において,同行の警察官に先立って,法廷傍聴に来た被告人を目撃にかかる人物として発見し,その旨を申し出ているのであって,同人物の容貌等の特徴に関する具体的な記憶を保持していたものと認められる。さらに,被告人が当時一ツ木通りの犯行現場直近にいたことは前記A証言によって裏付けられており,A及びB両証言が指摘する被目撃者男性の人相(金属製フレームの眼鏡着用の点を含む),髪型,年齢,服装等が些少な表現上の差異はあっても基本的に符合していることを併せると,同識別証言の信用性もまた高いというべきである。
原判決添付の見取図②ないしは③の位置から,同図地点で犯人が中腰でけん銃を構え,倒れかけている被害者Cに対しその背後から発砲している場面などを目撃したD及びEの両名は,原審が公判期日外で実施した証人尋問に際し,犯人と被告人の同一性について,「あまり覚えていないが,体つきは私が見た人はもう少しすらっとした感じがしたのでその点は似ていないと思う。目つきが多少似ているような気もしないではない」,「どちらかと言えば,似ていないと思う」(D),「記憶では,すぐにこの人(被告人)だと思うような感じではない。特に体格が違う気がする」「似ているとは言えないが,似ていないとも断言できない。自信がない」「私が見た人の眼が細かったが,そこが似ているかも知れない」(E)などと証言しているので,これらの証言と前記A,B両証言との整合性等が問題となる。
まず,両名とも,約12メートルの至近距離から,犯人の姿やその左の横顔を目撃しており,周囲の明るさ及び両名の視力等を踏まえると,犯人の容貌等の特徴をある程度把握できたものと考えられる。このことは,原審で証拠採用された両名の各検察官調書に,犯人の特徴として,「年齢は30歳から40歳くらいの間,体格はがっちり,角顔で顎骨に肉が付いており,眼が細く,眼鏡をかけていた。髪の毛は黒くてパンチパーマが少し伸びた感じ,上着は紺色っぽいジャンパーで,下は黒っぽいズボン。グリコ森永事件で警察の指名手配の写真にあった『キツネ目の男』に似た感じの暴力団組員のような男だった」(Dの検察官調書),「年齢30代前半くらい,身長は170センチメートル前後,やや角張った顔で,体格は普通,色白で,目が細くてキツネ目,銀縁の細い眼鏡をかけていて,髪型はゆるめのパンチパーマがかかった感じ,黒っぽいジヤンパーを着て,白っぽいスニーカーのような運動靴を履いていた」(Eの検察官調書)などの具体的な供述記載があり,さらに,両名とも,それぞれ多数の写真の中から被告人の写真を選び出し,実物による面通しを経て犯人と被告人とは似ているとする供述記載があることからも裏付けられている。もとより,両名は,犯人の顔等を正面から目撃したわけではなく,また,人に向けてけん銃を撃っている衝撃的な場面を目の当たりにしたのであるから,驚愕や緊張などにより,冷静に観察し得ない心理状態にあったとも考えられるのであって,犯人と被告人の同一性について確たる供述ができるほどに的確に犯人の容貌等の特徴を掴んでいたとまでは認められず,上記の各検察官調書でもそれぞれ断定を避ける趣旨のものになっている。したがって,同検察官調書のみをもって犯人と被告人の同一性を認めることはできないものの,前記のA,B両証言と符合する限度で,相互にその各信用性を支えるものというべきである。そして,前記のD,E両名の証言については,勾引状の執行によりようやく両名の出頭を確保した経緯及び現役の暴力団構成員である被告人の面前での証言であることなどの諸点に照らし,犯人と被告人の同一性に関して曖昧かつ後退した供述になっていることがうかがわれ,これをもって直ちに前記A,Bの各識別供述の信用性を損なわせるものとは考えられない。
2 アリバイ主張について
所論は,犯行当日の午後7時ころ,被告人は,犯行現場から約30キロメートルの距離にあるK市所在の養父F方にいたものであるから,明確なアリバイがあり,被告人が本件犯人ではあり得ないと主張している。その具体的な内容は,大要,「当時Fの長男が条例違反で新宿署に勾留中であったので,そのことを心配した被告人が,当日午後5時ころ,電車でF方に赴いた。夕食に被告人の好物のすき焼きを食べることになり,被告人とFが近くのスーパーまで買い物に行ってその材料を購入した。Fの妻GとH(Fの養子Iの内妻)も加わって4人で食事をしたが,午後7時ころ,Jから被告人の携帯電話に六本木で酒を飲もうという誘いの電話がかかったため,これに応じて六本木に行くことにした。西武拝島線東大和駅までGに車で送ってもらい,同駅から電車や地下鉄を利用して港区六本木に行き,午後9時半ころ,Jが待つクラブ『茜』に着いた。被告人が,Jと『茜』に行ったのは2回しかなく,1回目は京都から来た友人を同行しており,2回目が本件犯行当日のことになる。」というものである。
しかしながら,このアリバイは当審段階で初めて主張されるに至ったものであって,当時犯行現場にいたことを含め,本件との関わりを全面的に否定して無罪を主張する被告人にとって極めて重要なアリバイを何故にこの時期まで明らかにしなかったのか多大な疑問があり,供述の経過が著しく不可解不自然である。すなわち,被告人自身,捜査及び原審公判段階で,右アリバイを述べた形跡は全くなく,特に,原審証人Jが平成10年12月4日に秋田地方裁判所において実施された証人尋問で,「発砲事件があった日の夜は,被告人と一緒に六本木の『茜』で酒を飲んだ」「赤坂に着いたときに被告人に電話すると,そのときはK市の父親の家にいるという話だった」旨の前記アリバイ事実に沿う証言をしたにもかかわらず,被告人は,その後同月22日の原審第5回公判期日に実施された被告人質問に際し,右のJ証言の内容を十分に了解しながら,なお,「当日にどういう行動をしていたのかはわからない」「特別変わった行動をした記憶はない」「当日かどうかはわからないが,Jと飲みに行ったような気もする」「六本木の『茜』にJと行ったことはあり,当日夜にJが同店で被告人と飲んだというのなら,そうかもわからない」「当日午後8時ころ『茜』に行ったかもわからないし,自宅にいたかもわからない」旨の甚だ曖昧な供述をするに止まっていたものである。この間の経緯について,被告人は,当審公判で,原判決後に「茜」の当日の売上伝票の記載内容を知って初めて具体的な記憶がよみがえったなどと供述しているが,K市の養父方を訪ねた機会がさほど頻繁ではないことは被告人自身認めているばかりか,前記アリバイについては,Jに呼び出されてK市から急遽六本木に向かうという特異な内容をも含んでおり,事件発生から10か月余り経過して検挙されたことを十分に踏まえても,伝票の記載がなければ想起できないようなことがらであるとは到底解されない。そして,そもそも伝票の記載内容は,当日夜にJのほかにもう1人が遅れて入店した事実を示すに過ぎないものである。被告人の説明に合理性があるとはいえない。また,被告人だけではなく,Jをはじめ,F,G及びHなどの関係者についても,被告人が重大事案である本件の犯人として検挙され,公訴提起されたにもかかわらず,被告人に前記アリバイがある旨を申し出るなどした形跡は全くうかがわれず,Jのみが前記の出張尋問に際して,本件当日の自己の行動について証言する過程で,ようやく触れるに至ったに過ぎない。真実アリバイが存在するのであれば,その単純明解な内容や被告人にかけられた嫌疑の内容,さらに,同人らと被告人との密接な人的関係などに照らし,同人らから,早期に何らかの申し出等がなされるはずであり,上記の事実はおよそ理解困難というべきである。